社長のふと思う 第二十回 「ニャースケ その3」

ニャースケとの毎日のデートが日常の一コマになってから何ヶ月かが過ぎた。

例によって、ニャースケの名前を呼ぶと、その日はグラウンドの脇の駐輪場とおぼしき所(簡単な屋根がついているが、実際、自転車が置いてあるところは見たことがない)の植え込みから姿を現した。するともう一匹、ニャースケと同じくらいの体の大きさ(ニャースケは割りと小柄である)の白い猫が植え込みから出てきた。動物に関しては博愛主義の私は、しょうがないなと思いながらその白い猫にも餌をあげた。ニャースケは牛乳が好きなので、毎日あげているが、その白い猫もニャースケを押して自分も飲んでいる。仲の悪い猫同士だと餌場で顔を合わせようとものなら、すぐ「フーッ!!」「シャー!!」とバトルになるが、ニャースケは別段気にする様子もなく、顔を洗ったり毛づくろいをしている。その白い猫も牛乳を飲み終わってから同じことをするのだが、ニャースケの側にいって、ペロペロとニャースケの毛づくろいをしてあげている。ニャースケもされるままにじっと気持ちよさそうにしている。

「ニャースケがそうやってジッとしているのも珍しいね。仲良しなの?」

と声をかけると、その白い猫は今度は私の方へ来てスリスリして甘えてくる。人懐っこい猫ではあるが、どこかで飼ってもらっているふうでもないし・・・・・・。そして、その日以来チロ(先にシロと名付けているオス猫がいるので、シロではなくチロという名にした)は、ニャースケと一緒に姿を現すようになった。しかも場所も初めてチロが出てきた所に定着した。
雨の日も風の日も、台風のときは過ぎるのを待って(時間は夕方になってしまう時もあったが)、お正月休みも、ゴールデンウィークも夏休みも、春も夏も秋も冬も、ほぼ毎日そんな穏やかな日々が続いた。チロは以外と「がっつきさん」なので、先に食べ終わったニャースケにブラシをかけたり、お腹を撫でたりと信じられないくらいニャースケもなつくようになっていた。(捕まえることは相変わらずできなかったけれど。)

ある日、グラウンドに五匹の中型犬を連れて散歩に来ていた人が、運動させようと放したら、一斉に餌を食べているニャースケたちのほうへ向かって走ってきた。その時のニャースケとチロの素早いこと!十メートルほど先の大きな木に、あっという間に駆け登っていた。犬たちは猫より餌に興味があったようで、大きな口で一口、二口で食べ終えてしまった。きっとその時の私は呆然として、さぞかし間抜けな顔をしていたことだろう。そして、なんと見覚えのある毛並みの五匹の犬たちは、私が二十代の頃に飼っていた犬の子供なのである。その犬(チョビという。雌だったが男顔だったので)も、京浜島の野良犬だった。保護したときにはすでにお腹が大きくて、やむなく六匹の子犬が産まれた。そのうちオス三匹は京浜島の人が貰ってくれた。そのうちの一匹の末裔なのである。(チョビの話はまたいつか別の時に・・・。)

話はそれてしまったが、そのような訳で犬たちのことも怒るわけにいかず、ニャースケたちが降りてくるのを待つしかなかった。犬たちは、当然飼い主にひどく怒られて、しっぽを下げて帰って行った。

「ニャースケ、あんな足で登ったはいいけど、ちゃんと降りてこられるのかな。」

と人の心配をよそに、一時間ほどしてまた様子を見に行ったら、もう木の上にはいなかった。ホッとはしたが、その日はもう名前を呼んでも姿を現さなかった。

チロは「ニャースケ」と呼んでも飛び出してくるほど慣れてきた。最初はあまり仲がよいのでチロのことをメスかと思っていた。でも、よく観察するとオスなのである。我が家でも、会社でも以外なほどオス猫同士は仲が良い。最近はライオンもオス同士で仲良く群れているグループもあると、テレビで観たことがある。ネコ科は同じだからそんなものかなとも思い、微々笑ましく見ていた。

(続く)
Yuri

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社長のふと思う 第十九回 「ニャースケ その2」

「ニャースケ、脱走する」

そうして一ヶ月半の入院生活の後、ニャースケは京浜島に戻ってきた。青いチロリアンテープ風のきれいな首輪も入院中に付けてもらい、会社には、猫用の大きなサークルを用意した。だが、その中で半ば体(胴と肩のところ)を吊っているような状態で、まだしばらくは我慢しなければならないという。ニャースケはますます、人間不信に陥っているように見えた。左後ろ足の指は内側(足の裏の方)へ丸まり、やはりビッコになってしまった。それでも、初めてニャースケのレントゲンの写真を見せられた驚きから思えば、よくここまで治してもらえたと、先生には本当に感謝している。

ニャースケは、野性動物が捕獲されたような騒ぎで、餌を入れるにしろ、水を替えるにも軍手が必要なほどだった。サークルの前を人が通ると睨み付け、誰かが「ニャースケ」などと声を掛けてのぞこうものなら、「シャーッ!!」っと威嚇する。そのうち誰も「ニャースケ」とは呼ばず「シャー」と呼ぶようになってしまった。

他の人がニャースケの世話をしてくれていた、そんなある日、サークルの扉を開けてトイレの掃除をしている時に、わずかのスキをついて、ニャースケは脱走してしまった!
ビッコで三本足なのに、凄い勢いで階段を駆け降り、あっという間に姿を消してしまったという。それを聞いて、会社の周辺や、元いたグラウンドの方まで、ニャースケの好きな餌とまたたびとキャリーバックを持って捜し歩いた。「ニャースケーッ!ニャースケーッ!」と呼びながら・・・・

その日から、毎日会社とグラウンドの付近をニャースケの名前を呼びながら捜した。そうしていると、顔見知りの他の猫とはよく出会う。自分のことを呼ばれたと思うのか、私の声のトーンを憶えているのか、親しげにすり寄ってくる。そのたびに餌をちょっとあげながら、
「ミケ、ニャースケ見なかった?知っていたら教えて。」
と聞いても、
「ニャア」
と答えて甘えてくるばかりだ。
まわりの人にも、
「青い首輪をしてビッコの猫、どこかで見かけませんでしたか。」
と聞いて回った。グラウンドのほうで見たという人がいたり、近くの道路の中央分離帯のところにいた、という人もいた。

あんな体で、また車にはねられはしないか、他の猫とケンカでもして、ケガでもしていないだろうか。どこかで餌はもらえているのだろうか・・・。心配の種は尽きなかった。

そうして二週間以上過ぎたある日、いつものように、
「ニャースケ、ニャースケ」
と呼んでいると、グラウンドのレストハウス前の、広場の円形のベンチのところから、ニャースケがヒョッコリ顔を出した。
「ニャースケ!!どこ行ってたの!ずーっと心配して、毎日、捜してたのに!おバカさん!」
と言い続ける私の顔を、ニャースケはそのきれいなグリーンの瞳で、じーっと見ているだけだ。
「お腹すいているでしょ。」
容器に餌を入れて前へ置く。少し警戒しているようだったが、パクパクと食べだした。今までどこで餌を確保していたのだか・・・。例によってまたたびでつって、キャリーケースの中に入れようとするのだが、今日は騙されないぞ、とばかり、餌を食べ終わると、またヒョコヒョコどこかへ行ってしまおうとする。
「ニャースケは中に居るのがイヤなんだね。」そう独り言のように呟いて、ニャースケの後ろ姿を見送った。

その日以来毎日、ニャースケが居るだろうとも思われる、グラウンドのあたりを、名前を呼びながら歩いているとニャースケも姿を現すようになった。でも、捕まえることはできない。
こうして、一日一回、ニャースケとのグラウンドでのデートがはじまった。

(続く)
Yuri

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社長のふと思う 第十八回 「ニャースケ その1」

ニャースケと出会ってから何年が経っただろうか。八年は過ぎていると思う。初めて会った時、すでに成猫だったので実際の齢はわからない。

最初の出会いはただビックリ!!だった。いつものように車で京浜島のグラウンドの脇を走っていると、片足をブラブラさせ、血を流しながら歩いている猫を見かけたのだ。見かけると、ほうっておけなくなる性分の、なせる技を存分に発揮して、一時間後には、かかりつけの獣医さんに着いていた。

車を停めて、声をかけると振り返りはするが、そばに寄ろうとすれば逃げようとする。いったん会社へ戻って、キャリーケースと新聞紙を積み込み、再度現場へ向かう。
「このちょっとの間にいなくなってしまっていたら、どうしよう・・・」
とドキドキしながら、車から降り、ケースに新聞紙を敷き、餌とマタタビを持ってあたりを見回すと、少し奥に入った植え込みのところにうずくまっていた。

「お腹空いていない?」
「何にもしないから、こっちにきてごらん。」
(ほんとうは捕まえようとしているのに!)
「そのままでいたら死んじゃうよ。」
とか何とか一人で言っていた。はたから見たら変な人に映るかもしれないが、こちらも何とかしたくて必死だ。通行人がほとんどいないことも幸いして、餌につられて少しずつ植え込みから出てきた。そばのケースの奥に餌を入れ、マタタビを振りかける。マタタビの匂いに誘われ、警戒しながらも一歩、また一歩と、ケースの中に脚を踏み入れてきた。体が半分くらい入ったところで、ケースの戸でおしりを押すようにして押し込み、やっと捕獲成功!

ほっとして汗は出てくるし、やっと息が吸える感じがしたが、扉を閉められた瞬間から、中では大騒ぎだ。持ち上げたキャリーケースが、ゴトゴト勝手に揺れ動いている有様だ。車を動かし始めてからは、傷が痛むのか、観念したのか静かにしていた。

獣医さんではまず患者の名前を聞かれる。こちらも頭が真っ白な状態で連れていっているので、気のきいた名前も、かっこいい名前もなにも思いつかない。
「ニャースケです。」
咄嗟にそう言ってしまった。以来その猫は「ニャースケ」になったのである。ラッキーなことにその日、ちょうど院長先生が診てくれることになった。腕も見立ても抜群の先生なのだ。
事情を説明している間、ニャースケはケースに入ったまま診察台の上だ。
「慣れてる?」
「飼われている猫ではないみたいだし、私も初対面なので・・・。」と答えると院長先生は、
「網持ってこい。」と若い先生に言った。
魚をすくうような大きな網が登場して、
「持ってろよ。」と言うやいなや、キャリーケースの扉を下に向けて網めがけて開けた。哀れなニャースケはケースから、網の中に真っ逆さまに落ちた。すばやく網の上を捻ると、そのまま診察台の上に置かれ体重を計る。すぐに麻酔が打たれ、ニャースケは動けなくなってしまった。猛獣が捕まるとこんなだな、といつかテレビで観たシーンが頭をよぎる。
静かになったところで、網から出されレントゲンを撮る。左後ろ足の指先までグチャグチャになってしまっているという。多分、車に轢かれたのだろう。何度かにわけて手術をしなければならないこと。成功したとしてもビッコ(今は差別用語なのだが、猫に対してなのでお許しを)になってしまうかもしれない。最悪の場合は足を切断することも有り得る。と説明された。

「命は助かりますよね。」
「それは大丈夫です。」と笑われた。
「それでは、よろしくお願いします。」

こうしてニャースケは一ヶ月半、足を舐めたり咬んだりしないように、エリザベス・カーラー(襟巻トカゲのような形のもので、エリザベス一世の首の回りのフリルからつけたらしい)をされ、自由気ままに生きてきた猫には大変な日々が始まったのだった。

(続く)
Yuri

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社長のふと思う 第十七回 「ポノ」

五月の連休明けの水曜日、小っちゃな毛糸玉のような子猫は、会社に来た。連れてこられたと言ったほうが正確だ。

お隣りの会社の工場で子供を産み育てていた親猫は、ある日、引越しを決心したらしい。一匹ずつ喰わえて移動していたはずなのだが、なぜかこの一匹だけは忘れられてしまったようだ。そして二日間、親猫は姿も見せず、残された一匹はお腹を空かせてずっと「ピー、ピー」と鳴いていたという。仕方なく、その会社の社員さんが、小さな部品箱にその子猫を入れて会社に持って来たのである。

「ここで面倒を見てくれないなら、しょうがないから捨ててくる。」と言われては放っておくわけにはいかない。望んだわけではないが、その子猫は我が家の一員となった。かくして同居の猫は十六匹!!になったのである。

不思議なことだが、身内に何かあったり(例えば、手術をしなければいけないような病気になって入院した時とか)、私自身がすごく心配事を抱えていた時とか、ものすごく悩んでいた時とか・・・そんな時に大事な猫(犬を飼っている時もそうだったが。)を失ってしまう。病気だったり、事故だったりするのだか亡くなってしまうのだ。大きな波の時には短い期間に四匹は持って行かれてしまう。

去年の十二月から今年の二月にかけても、四匹を見送らなければならなかった。悲しい、辛い気持ちもさることならが、そういう事態を引き起こしてしまった。自分の気持ちの持ちかたへの、自責の念はぬぐい切れない。

連休明けに、主治医のクリニックの先生と話している時に、「ああ、それだったらこの本がいいと思いますよ。」と一冊の本を頂いて帰って来た。そこには今自分が考えていること、悩みに思っていることの答えが書かれているような気がして、速読もせずにその晩のうちに読み終えてしまった。

その翌日に来たのが件の子猫である。もし、他にこの子猫のことを欲しいという人があれば諦めるけれど、誰もいなければ家で飼おうと決めた。その子猫につけた名前が「ポノ」である。きっかけは前の晩に読んでいた本から付けた。

白地にグレーのサバ柄が飛んでいる。しっぽは長く全部サバ柄だ。鼻はピンクともグレーともつかない、ちょっとタレ目。何とも言えず愛くるしい顔をしている。哺乳ビンで猫用の粉ミルクを溶いて飲ませる。親猫がいないので、お尻をティッシュでちょいちょいと刺激しておしっこをさせる。そこまではいいのだが、お通じのほうをしてくれない。四日目に獣医さんへ連れて行って浣腸のようなものをして、お腹を押されると、小さな体からはビックリするくらいの量をして、先生たちも茶色にまみれて大変だった。

もう一度、獣医さんに連れて行ったが二度目は大変なことにならずに済んだ。先住の猫たちも徐々に慣れてきて、代わる代わる、ポノの体をなめてくれるようになり、無事に自分で猫用のお手洗いで、お通じをしてくれた時には感動してしまった。

来た時は片手の平に乗るくらいの大きさしかなかった子が、今では倍以上になった。年長さんの猫たちと取っ組み合ったり、追いかけっこをしたり順調に育ってくれている。それだけでほんとうに嬉しくて幸せだ。

愚かな私は、いつもこうして側に居てくれる動物たちに迷惑をかけ、教えられながら今日も点呼に忙しい。ちゃんとみんな家の中に居るだろうか。一匹ずつ名前を呼びながら確認していく。大所帯の大変さはあるが、愛する動物たちが元気でいてくれるのが何よりである。

今まで出会った何十匹もの動物や鳥たち。天国に行ったか、天国へわたる橋の手前の花園で遊んでいるのかわからないけれど、一匹一匹、一羽一羽のことを今でも忘れない。ずっと、ずーっと大好きよ。I love you !!

Yuri

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社長のふと思う 第十六回 「しつけ」

「しつけ」は「躾」と書く。大国語辞典によると、日常生活に必要なことを習慣づけ、礼儀作法や社会生活に必要な規律を身に付けさせること。とある。また「礼儀」は、社会の秩序を保つための、人間相互間の行動・作法。そうした敬意の表し方。――だそうだ。

なぜ「しつけ」なのかというと、幸田文の『しつけ帖』(平凡社)という本が刊行され、ふと自分の小さい頃の「しつけ」なるものを思い出したからである。幸田家のしつけの厳しさはもとより有名であるが・・・。それでもまだ私が育った時代は、どこの家でもそれなりのしつけはあったと思う。

数日前、新聞の「若者の声」という投稿欄には、電車の中でお化粧をしてなぜ迷惑だといわれるのかわからない。という意見があった。座席に荷物を置いたり、足を広げて場所をたくさん取っているのが人に迷惑をかけているのはわかるが、人前でお化粧していても誰にも迷惑はかけていないのにと。

まあ、それもそうだが、彼女は人との接触点でしか迷惑ということを考えていない。お化粧を人前でしている行為自体が「見苦しい」という感情を他人に起こさせるということを無視している。

斎藤一人さんは「自分のことも周りのことも、見えている人」が「大人」だと言う。周りの人にどう思われているかを考えて行動することが、大事なのだと考えている。そのとおりである。

礼儀は常に相対する人との間にある。そのことを教えるのがしつけであろう。しつけは身を美しく整えるために、見苦しくないようにと「マナーブック」以前の、日常生活のすべてにわたるものである。幼い頃、家には「ばあやさん」と「ねえやさん」と呼ばれる住み込みの人がいた。(今は死語かもしれない。)お手伝いさん、家政婦さんともちょっと違う、ある意味では家族の一員なのだ。「ばあやさん」は骨を埋める覚悟で本当の祖母のように世話をしてくれるし、身寄りがなければ、たとえ体が動かなくても最期のときまで面倒を見、お弔いまでする家も少なくなかった。「ねえやさん」は若いというよりは幼いほどの年齢で、お稽古事などの行儀見習いもさせ、年頃になると親代わりも兼ねている場合は、婚礼の仕度まで整えてあげていたりもした。

それだけ家に女手があれば、さぞかしラクをして育ったと思われがちだが、とんでもないのだ。(少なくとも幸田家と母の実家と我が家は・・・。)小学生になると段々、家の手伝いをさせられるようになった。ねえやさんの足手まといな助手のようなものだ。おつかいに行かされる。途中、握りしめていたお金を落としてしまい、暗くなっても帰れなかったこともあったし、近所の犬に吠えられてビックリして転んで、お豆腐はメチャメチャになるし、膝小僧は擦り切れて痛いし、泣きながら帰ったこともあった。

そして、掃除の手伝い。バケツに水を汲んで(重い!)廊下から二ヶ所ある階段の一段一段まで全部拭いていく。雑巾の絞り方が悪いと叱られ、あまり時間がかかると愚図と言われ・・・。そのシチュエーションで起きる事件は大体ご想像のとうりである。

そのくらい母は厳しかった。兄二人には甘かったが、聞くところによると、長女であった母自身が祖母に厳しくしつけられていたようだ。時代がさらに逆上るので、女中さんより厳しくされていたという。手はいつも赤切れで痛くて、本当の親かと思っていたそうだ。自分は貰われっ子だから苛められていると信じていた、というくらいだ。

が、今思い返せば、お茶室の拭き掃除も、重いやかんを持って長い廊下を上手に素早く歩けるのも、声をかけられただけで「はい!」とすぐ立って動けるのも、このころのしつけのおかげだと感謝している。なにしろお茶会は他で見ているほど優雅なものではなく、体力と気遣いの勝負なのだ。完璧、体育会系である。

社内で環境・品質ともにISOの活動をしているが、そこでの「4S」、整理・整頓・清潔・清掃。「5S」には「しつけ」が入り、「6S」では「習慣」が加わる。4S自体がしつけの基本であり(挨拶や身だしなみも当然だが。)それが身に付いた姿が習慣なのだろう。日々の生活や仕事でも常に意識し、体を動かして初めて身に付いてくるものだ。稽古でなぜ同じことを何十回、何百回、そして何年も何十年も続けなければならないのか。叩き込むというと言葉が悪いが、意識せずとも自然に身体が動くようになるには、そうして憶えこませていくしかない。それが「型」であり「姿」になっていくのである。

「型はすばらしい。型があるから自由になれる。」と白州正子さんは語った。美しい所作、相手を思いやる心を自ずと身に付けるためには「しつけ」は絶対必要であると思っている。何だか口うるさい年寄りの説教のようになってしまったが、自分自身、日々気をつけていることでもある。ほんとうにもっと齢を重ねても、きちんとした言葉、きちんとした所作が自然な老人になりたいものである。そして、それはとてもエレガントなことだと思う。

Yuri

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社長のふと思う 第十五回 「ニ月二十八日」

毎年、二月二十八日前後には、茶道の各流派が利休居士の遠忌の茶会を営む。今年もまたその季節が巡ってきた。

千利休は天正十九年(一五九一年)二月二十八日の朝、京都の聚楽第にある利休屋敷で切腹をして果てた。秀吉から「死を賜」ったのである。堺の商人の子として生まれた利休が、なぜ武士のように切腹をしたのだろうか。黙って首を刎ねられても良かったのである。徳川家康も含めた周囲の人々の説得に応じ、秀吉に侘びを入れれば済んだ話かもしれなかった。

がしかし、利休居士は最後まで侘びなかった。自分一人の身だけでなく、一族にまで累が及ぶかもしれないにも関わらず。自分の信念、美意識、一生を通じて追い求めてきたものを、自らの手で捨てることはできなかったのである。

「侘び・寂び」と言うと俗世からかけ離れた、枯れた心境・風情をイメージしがちだ。利休居士の茶の師匠でもある武野紹鷗は、侘び茶の心を定家の歌に寄せ、

見わたせば
花も紅葉もなかりけり
浦のとやまの秋の夕ぐれ

にあるとした。侘びた、もの悲しくさえある光景が目の前に広がる。だが、紹鷗は何も知らない無知な者には、侘びはわからない、とも言っている。花も紅葉も知らない人には苫屋の侘びた世界は楽しめない、ということである。「花や紅葉」とは何か、それは、東山文化から連なる名物、唐物といわれる当時でも越一級の美術品であり、一番格式の高い書院台子の茶のことなのである。

後年、利休居士も、道具も持たず、知恵も経験も何もない貧しいのが侘び茶ではなく、名物贅沢を見尽くしてから始まる侘び茶の深遠を追求したいのだ、という意味のことを語ったそうである。
私たち一般人が抱く、枯れた風情のイメージとは裏腹に、利休居士は誰よりも欲が深く強かったのだろう。

花をのみ
待つらむ人に山里の
雪間の草の春を見せばや
藤原家隆

前述の紹鷗の歌とよく比較されるが、利休居士が「侘び茶」の精神の象徴として、愛誦したといわれている。紹鷗の、存在しているのは自分一人のような森閑とした空気と比べると、この歌には、萌え生づる草の生命のエネルギーが、ほとばしるように感じるのは私だけではないと思う。紹鷗の侘び茶に、生命の清新さを利休居士は吹き込んだのである。
そのエネルギーは利休その人の生命の強さしぶとさでもあったろう。七十歳で果てるその晩年までも、枯れている風情ながら内から滲み出る強い力が感じられたという。

天正十五年のその日の数日前から、上杉景勝の軍勢三千騎が利休屋敷の回りを囲んでいた。弟子である大名たちの誰かが救出に来るかもしれない心配があったのだろう。

月二十八日は、雷鳴が轟き、霰が打ちつけ、おそろしい天候であったと記されている。利休居士の怒りが天に届いたかのようであったと。ざん言により、官位を剥奪され、大宰府へ流された菅公のように。

その日の朝、利休居士は一畳台目(不審庵)の席を選び自ら拭き清め、最後の茶の仕度を調えた。介錯役の蒔田淡路守らを迎え、茶を練る利休。そして、自ら切腹しその腸を掴み出し、天井の自在に引っかけて果てたという。小間の席では首を刎ねることもできない。(刀をふるうスペースがないのだ。)利休の首が刎ねられたのは、その後である。

利休居士は、まだ与四郎といわれていた少年時代に、三好元長が顕本寺において切腹し天井に腸を投げつけたという話を聞き、その後の大掃除におわれている顕本寺まで足を運んだという。同じような姿で果てる、不思議な巡り合わせを思う。

 
利休遺偈(ゆいげ)
人生七十 (じんせいしちじゅう)
力囲希咄 (りきいきとつ)
吾這宝剣 (わがこのほうけん)
祖仏共殺 (そぶつともにころす)
   提ル我得具足の一太刀
   今此時ぞ天に抛
    (ひっさぐるわがえぐそくのひとたち
     いまこのときぞてんになげうつ)

中国、蜀の禅僧幹利休の遺偈の引用とも言われている。利休居士の師の紹鷗は八十で没している。利休居士も、師のように生を全うしたかったことだろう。後十年、利休居士が長生きしていたら、またもっと違った世界を築いていたかもしれない。こういう人は、世間の人々のように「あと十年若かったら・・・」とは思わないのだろう。今の自分が今までの集大成であり、一瞬々々刻々と変わっていく時間も自分も、常にその瞬間を生きながら、前へ先へと進んでいく。進化していくと言ってもよいかもしれない。

十年若くではなく、後十年生きる・・・。そんな内に秘めた強さを持ちながら、年は重ねていきたいものである。

Yuri

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社長のふと思う 第十四回 「新年を迎えて」

あけましておめでとうございます。

そういう言葉に今年ほど、胸の疼きを感じる年明けはそうないと思う。そこそこの長さの人生を振り返っても、新年の挨拶というものは何が何でもめでたいものだ という気持ちで今までの不況の年も、個人的に悲しいことや辛いことがあった年々も越えてきた。

たぶん、これから数年にわたって起こるであろう事態が気持ちを沈ませるのかもしれない。頭で考えるというよりは、身体が(カンというか)先に反応しているような感覚だ。

元日の朝(日の出)の天候で、その一年の景気動向がわかる、という確信を持って毎年日の出を見つめ続けている方が、私の回りに何人かいらっしゃる。どなたも「先生」と呼ばれる方達だ。干支の巡り、星の運行、世間では、迷信や占いと呼ばれるものと、様々なデータと、そして直感!を駆使して総合的な判断をされるようだ。そして、これがまたなかなか的確にその一年を言い得ているのだ。

こんな言葉を聞いたことがある。(多分、K先生だったと思うが。)

大金持ちは占いを盲信するが、大富豪は占いを活用する。

また、別では、

小さな金額を賭ける者は迷信を信じない。だが、大金を賭ける者は迷信を信じる―

とも。

そして私も自分の直感や迷信と言われるものの類を信じるほうだ。気持ちで望んでいても、不思議とうまくいかない時もあれば、奇跡的にうまくいくこともある。今、私も状況の把握に努めている。何が起きていて、経済環境も含めた世界がどう変わっていくのか。誰も経験したことがないことが起こるのかもしれない。ただし、視界は良いのだ。よく見えている、と言ったほうがよいのかもしれない。不透明で混沌とした時代ではない。でもジェットコースターのような時代かもしれない。

経験したことのない未知の体験は、気分的にイヤなものだ。だが過ぎてしまえば、振り返った時、「あぁ、そういう時代だったな」と思うだけのことかもしれない。

知らないものに対して、人は恐れや不安を抱く。そして見ないよう、知らないようにしてやり過ごそうともする。その中で一握りの人々が、一つ一つの困難を克服し今の時代がある。

終戦前後、昭和恐慌、明治維新、そして戦国時代や応仁の乱。日本は日本で価値観が全く変わってしまうような、大変な時期や危機を何度も乗り越えてきた。私は自分の中にある、その時代々々を生き抜いてきた、何億人もの先祖のDNAを信じて、勇気を持って時代の変化を直視し、前向きに歩んでいきたいと思う。

{人は自分の見たい現実しか見えない」

そう言ったのは、ユリウス・カエサルだ。彼もまた危機感を持って、ローマの改革に挑み、後継者アウグストゥスによって「パクス・ロマーナ」は現実のものになる。科学や技術が進んでも、人間そのものはそんなに進化するものではない。
今までの延長線上にない時代かもしれない。でも、どんな時代も人は一人では生きてゆけない。人との信頼関係が何より大切だと実感する社会になるかもしれない。

さあ、お手をどうぞ。

みんなで、勇気を持って、元気に力強く新しい年の一歩を踏み出しましょう。

Yuri

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社長のふと思う 第十三回 「年の暮れ)」

忙しさに紛れて十二月末になってしまった。もう冬休みだとういうのに「夏休み」原稿すら終わらず、何ヶ月も更新なしの始末。言い訳がましいが、実はこの原稿を読んでいる人などいないと本当に思っていた。ところが、十二月に入ってある勉強会で一年ぶり以上、会わなかった友人とバッタリ会えた。とても嬉しかったけど、「更新もしていないし、どうしたのかと思ってた」と言われて反省することしきりである。もし、この拙い文章を読んでくださっている方がいらしたら、心より感謝し御礼申し上げます。ありがとうございます。

今年最後のお茶事に十九日、伺った。本席の掛物は、利休より古田織部に宛てた文(消息)を表具し掛物に仕立てたものである。五百年も前の一遍の手紙が大切にされ、二十一世紀に生きる私たちが遭遇できることが、やはり驚きである。時代を経て、紙も色が変わっているが、歳暮に利休が古田織部に「小袖一重(こそでひとかさね)」を送るにあたっての添状である。全部は当然読めないのだが、心に残った部分を紹介したい。

「・・・萬御事乱レ、いたましく存候 去乍 目出度存候」とあった。

(若干、記憶違いがあるかもしれないが・・・)

よろずのおんことみだれ いたましくぞんじそうろう さりながら めでたくぞんじそうろう

多分、このように読めるかと思う。戦国から安土桃山の時代の何年というのが読めていないので、何とも言えないが、戦があったのか、政治上、何か起きたのか、そういう年であったのだろう。織部の勝利に終わったので「めでたく」と書いたのかもしれない。

ただ、この言葉に触れた時、ふと今の私達の生きている時代を思ってしまった。百年に一度とも、五百年に一度ともいわれる時代に突入してしまったが、そこで恐れて立ち止まるわけには行かないのだ。「人敗れて山河あり」のとうり、人は生きていかなくてはならない。そこには生活がある。

「さりながら めでたく 存候」と声に出して言えるよう、新しい年を迎えるにあたり、心を新たにしたいものだ。

Yuri

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社長のふと思う 第十二回 「夏休み(二)」

訪れると、懐かしい気持ちになる場所や土地がある。人はそれを「郷愁」と呼ぶだろうか。田舎のない(つまり生まれ育った東京しか知らないということだが)私にもそんな場所がある。

その土地の香りや日射し。ちょっとしたそよぐ風に心が一瞬にしてタイムトリップしてしまうような瞬間がある。幼い時の夏休みのひとこまを彷彿させられたりするような瞬間。心は今を離れて遠いその頃へ飛んで行く。甘く切ない気持ちが揺らぐ。

誰しもそんな体験があると思う。マドレーヌの香りに誘われて過去を回想できるのは、プルーストだけではないはずだ。ただし、あれだけの長編が誰にも書けるとは思わないが。

そんな土地の一つが箱根であり、富士屋ホテルなのである。

美術館巡りを終えて部屋へ戻る。ここには地下にも温泉の大浴場があるのだが、この部屋の昔風のバスタブにお湯をはり、ゆったりするほうが好きだ。部屋のお湯も温泉が出るし、ニ方向に窓がある贅沢さだ。(ゴージャスというわけではないけれど。)

その時、読みたい本を三~四冊は持って行くので、そのうちの一冊を持ってお湯につかり小一時間も過ごしてしまう。みんなからは、そんな長風呂をしているとふやけてシワだらけになると笑われているが、そんなひとときも、かけがえのない楽しみであり、ここを訪れたときの儀式の一つでもある。

このところもう一つの楽しみが増えた。スパと言っているところで、背中や頭のデドックスとリラックスのマッサージをしてもらうのだ。それぞれ四十分ずつかけて丁寧にしてくれる。お休みで旅行に来ているということもあるだろうが、日頃の疲れが抜けていくようで、終わった後には頭も体も軽くなっている。新しいお気に入りがひとつ加わった。

ディナーはいつも八時の遅い時間に頼んでおく。ダイエットには悪そうだが、六時か八時の予約になるので、後の方が時間を気にせずゆっくりできる。ディナーまでの時間はまたひとしきり読書。ソファのあるコーナーが広く窓に面していて、ゆったりできる。外はもう真っ暗になっているが、ホテルの灯りに照らされて、ぼんやり見える庭やエントランス、夏にはツリーバーもあり都会の明るさとはまた異なる趣が好きだ。そう、夜のお茶事の時の幽かな灯燈に照らされた、露地の風情のような感じなのだ。

そうして雰囲気に浸っていると、早やディナーの時間。もうすっかりお化粧も落としてしまっているので、パウダーをはたいて口紅をつけるぐらいしか顔は造らないが、そのための着換えだけはいつも持って行っている。

メインダイニングのクラッシックでゆったりとした空間は、人を緊張させずに心地良く迎えてくれる。奈良ホテルや日光の金屋ホテルのダイニングともよく似ている。

コースのお料理を頼むことはめったになく、アラカルトからそれぞれが食べたいメニューを選んでシェアしたりして、色々な味を少しずつ楽しむようにしている。ここは、ワインリストがすごく充実していて、値段も良心的な設定だ。各国のワインがあるが、ブルゴーニュは「赤ワイン」のコーナーでも造り手ごとに書かれているので、そこに思いもかけず飲んでみたかった白ワインが何気なく載っていると、掘り出し物を見つけたようで嬉しくなってしまう。

ディナーの後は、外のツリーバーのところで食後の時間を、星空を見ながら楽しむ。箱根の山の緑の空気を吸いながら、普段あまり考えないことや、忙しさに紛れてなかなか出来ない心の整理もする。後は眠くなるまで、ひたすら本を読み、厚いカーテンは閉めずに眠る。

そうすると、朝の光が薄いカーテンを通して射し込んでくる。刻々と変わってゆく太陽の光に誘われて、つい早起きをしてしまう。窓をいっぱいに開けると清々しい朝の空気が部屋に満ち満ちてくる。そして、ゆっくりと朝風呂に浸かり、朝食のルームサービスを待つ。ここの朝のメニューも、ボリュームはあるがとても美味しい。少食な人なら一つで二人分はあると思う。

チェックアウトし、山を降りて高速へ。あっという間に東京に着いてしまう。家に戻れば我が家族の猫たちが、お出迎えをしてくれる。こうして、ささやかな私の夏休みは終わり、またいつもの生活に戻る。一泊でも、通い慣れていて、かつ、いつもと違う空間に身を置くことはとても疲れずに気分転換になる。部屋を出る時、必ず「またね」と声をかけて扉を閉める。ここを秘かに「私の別荘」と思っている。

Yuri

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社長のふと思う 第十一回 「夏休み(一)」

 「夏休み」という言葉に、人はどんなイメージを抱くだろうか。青い空、白いモクモク雲、花火、海、蝉の声、プール、山の涼しさ、都会の熱い日射し、かき氷。絵日記や宿題に追われたこと。女の子は家の手伝いもしないといけない時代だった。

 いろいろな想い出が一緒になり、次から次へと湧いてくる。懐しくて甘い、そして切ない。もう戻れない子供時代、今はもういない両親や兄。大勢で賑やかだった家族のいた時代。今は勝手気ままにできて幸せな反面、一つの社会のようでもあり、プライベートなどないに等しい大家族時代も懐しく思い出される。

 あの一ヶ月半にわたる時間は何だったのだろう。途方もなく長く感じながら、お休みが終わっていつもの生活に戻る寂しさ。多少の小言を我慢すれば、日がな一日何をしていてもよかったのだ。一日中、日が暮れるまでプールでひたすら泳いでいた日もあったし、暗くなっても灯りもつけずに、夢中になって本を読んでいた日もあった。それでも時間は永遠に感じるぐらいたくさんあった。

 今、夏休みは会社でもある。しかし会社に居る猫たちのメンテナンスは、私の役目だ。最低でも一日おき、気になる時は毎日、その日の予定に支障のないように行く。つまり、旅行には行けないということだ。
では、夏休みの前後はどうかというと、これも事情はかなり似たりよったりである。家には家で猫がいるので、せいぜい一泊がいいところだ。その一泊も、メンテナンスは友人に頼む。二泊しようが三泊しようが、よさそうなものだが、二泊以上、留守にすると猫たちの様子がヘンになってしまうのだ。普段、甘やかしているツケがこういう時に回ってくるのだろう。

 その一泊に賭けるわけだが、ここ十年ぐらいはお決まりのパターンである。それは、週末、延々と続く東名高速の渋滞にもめげず箱根を目指す。落ち着き場所は宮の下の富士屋ホテルだ。部屋もいつも同じ部屋を頼む。
ホテルに着いたら、まずラウンジでお茶にする。シナモン・トーストとアイスコーヒーが定番だったが、去年からは「ティーセット」の中にしかシナモン・トーストがなくなったので、それを頼む。窓が開けてあり、山を背景に池がある。そこには錦鯉がたくさんいて、鯉の餌を買い込み、お茶が飲み終わったらそれをあげる。ただし、この鯉の餌は絶対に素手で触ってはいけない。一度嗅いだら忘れられないような臭いが手に残ってしまう。鯉は鯉の上に乗り上がりながら群れて、すさまじい限りである。が、餌を持っている人がわかるということは、鯉も学習するものだ。

 一息ついたところで、美術館へ出かける。箱根には美術館がたくさん点在していて、よりどりみどりである。ポーラ美術館は規模も大きく、展示スペースもとてもゆったりしている。椅子に腰を下ろして、好みの絵を心ゆくまで楽しめる空間が何よりの贅沢である。東京の主だった美術館は、企画そのものも人を呼ぶのだろうが、平日の昼間でもすごい人出だ。「立ち止らないで進んでください!」という係の人の号令のもと、ゾロゾロとまるで初詣でのような混雑に遭遇したことも一度や二度ではない。それから思えば、ここは天国だ。時間のあるときは、もう一つぐらい回ることもある。「ガラスの森美術館」も好きな場所だ。ヴェネチアの貴族の館か、大商人の邸宅のような造りの内部には、きらびやかなガラスで埋めつくされている。金属で出来ている工芸品よりはるかに脆いのに、何世紀も経て私たちの眼の前にある不思議。人の一生よりもはるかに長い時間を、このガラスたちは見つめてきたのだろうか。お茶で使われるお道具も、長く命を保ってきているものも多い。はっきりと、いつ、誰が所持していたかの来歴がわかるものもある。私などより、よほど氏素性が確かなのだ。幾度もの戦火や地震に遭いながらも、生き抜いてきたモノたち。「モノ」ではあるが、日本では昔から「百年を生きたモノには命が宿る」と言われている。出会った人々の気持ちの結晶がそのモノに宿るのだろうか。

 洋の東西を問わず、そのモノたちを守り今日に伝えてくれた人々には、感謝と敬意を表したい。

Yuri

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